技術メモ兼ADHD闘病記

自分がハッカソンなど参加した参加録とか技術を公開していきます。最近はガジェット系やアスリートやアマチュアドライバーやプロドライバーのことも書いています。今後はADHDの闘病記録も書いていきたいと思います。

自分から可能性を消そうとした

ども、hiro_matsunoです。

自分から可能性を消そうとしました。
それは昨日親父を迎えに行った時に口論をしてしまい家を出て生活保護受けながらグループホームで生活したいと思ってしまいました。
いろいろまちまちの情報が親父から開示されてしまい嫌気がさしてしまったのです。

思ったほど母のこと見ていなかったんだなと思いました。
聞くんじゃなかったと思いました。
家族に俺の幼少期どうだったなんて聞いた自分が馬鹿でした。
聞いたって良いことなんてないのにも関わらずあえて聞いて感じたことはもうこの家にはいられないでした。
正直なところ親父は俺のこと正常児だと思っていたようです。
発達異常だったから部屋も保育園時代から分けられていたにはわかっていなかったということが分かりました。
何のために母は自転車に乗せて隣の小学校に連れて行っていたかも知りませんでした。
結局は断片だらけの家だったんです。

岐阜大学附属病院での面談でも同じようなことになっていたこともありもうすごく嫌で仕方なく相談員である子安くんに家からでて生活保護受けたいと正直に話しました。
喧嘩しても何も解決できない状況だったのです。
もう何もかもが嫌になりかけていたのです。
でも思ったのは姿を消しても意味があったのかというところで思いとどまれるのか?
ここが問題でした。
何も経緯は姉には話すつもりがなかったからです。
自分から選んだ形で家から出ていきたかったんです。

何もかも捨てるということは今までのスキルと全てを捨てる覚悟でした。
もうどうでも良いやって感じだったんです。
自暴自棄になってました。
ちょっと落ち着いてとまで言われましたが心は決まりました。
俺がいない方がこの家は平和ってことがわかったんです。
結局は障害を隠し通せると思っていたんでしょうね。
色んなことを知られずに済んできた今の方がマシだったんでしょう。

知ろうとした自分が馬鹿でした。
もう考えは変わりません。
生活保護受けながらB級就労支援に切り替えようと思います。
そうした方が家は安全ですし喧嘩が絶えないことは無くなります。
そして全てがなくなり普通のただの障がい者の方が良いと思いました。
ついに心がプッツリと切れてしまったんです。
ほぼ障害もなくなって一般職にいけるまで克服に向かっていただけに残念です。
それだけ俺の幼少期は酷かったんでしょうね。
だから記憶がないんですよ。
もう絶えられない。

hiro_matsunoでした。

では。